東京芸術院
八ヶ岳高原オペラ
芸術論考「ぱれっと」
パレットに様々な色、素材を並べて、自在に混合、カンバスに画像を描く・・・。
これは会員の皆さんが日頃、思っていること、感じていること、主張やメッセージを自由に発信する場です。
東京芸術院 「企画案メモの余白に……」 近藤 雅和
1. 幼い頃、印象に残ったイベント
まだ5~6歳になる前、私が体験したイベントを思い出してみる。
おぼろげな記憶のなかで、はっきりしているのは、商店街や町内会のお祭りだ。はっぴ、鉢巻きを母に着せてもらい、白い足袋(たび)を履いて山車(だし)に乗る。団扇(うちわ)を振って、かけ声を上げると、ゴロゴロと動き出す。成長して小学生になると、「こども神輿(みこし)」を担いで練り歩いた。
そして、夏の夜祭り。広場で上映されていたのはアニメやチャンバラ映画だ。仮設スクリ-ン(大きな白い布)が風に揺れるたび、画面上の人物や背景も揺れる。アイスをなめながら、しだいに映画に引き込まれていく。
また、祖父が習っていた三味線教室に、よく連れていってもらった。きれいな和装の先生が、「小さいけど、弾ける?」と教えてくれる。稽古が終わると、好物の和菓子とお茶をいただく。ごきげんのひとときだ。
お正月、父に「今年のカレンダー、どんな絵かな?」と言われて表紙をめくった。すると、海上に大きな貝殻、その上に裸の女の人が立ち、こちらを大きな瞳で見つめている。後年、この絵はボッティチェリの傑作『ビーナスの誕生』と判るのだが、当時の私は「なんて変てこなんだ」と感じた。
その後、この謎というか、違和感は大きくなっていく。この状態だと貝殻は沈むはずなのに、なぜ沈まないのか? その理由は、女の人が宙に浮いているからなのか? それとも、とても浅い海なのか?
以上のような体験は、ずっと忘れられないイベントとして、私の脳裏に刻まれた。ひょっとすると、こうした体験が東京芸術院の企画案のなかに反映されるかもしれない(笑)。
2.「世界遺産 ラスコー展」を観て……
わたしたちの祖先は、何をどのように感じ、世界を観ていたのか?
2017年の初頭、東京国立博物館での「世界遺産 ラスコー展……クロマニョン人が残した洞窟壁画を観た。フランスのラスコーにある洞窟壁画は、スペインのアルタミラ洞窟壁画と同じく、1万5000年~2万年前、後期・旧石器時代(フランコ・カンタブリア美術)の遺跡。農耕が始まるのは1万年~1万2000年前のメソポタミアだから、狩猟時代の末期の壁画だ。ここに描かれた動物たちの姿は動画のようで、世界のアニメーション作家にインパクトを与えてきた。
ラスコー壁画には数百の馬、野牛(バイソン)、山羊、鹿のほか、人間や幾何学な模様もある。馬のたて髪は顔料を吹きつけて毛の質感を表現しているし、画家たち(?)の手形が500以上もある。狩りの獲物となる動物の躍動を活写し、それを描いた自分たちのサイン(手形)をしているかのようだ。この壁画は彼らにとって生きるために欠かせない獲物……狩猟の成功を祈った呪術行為であるとともに、獲物を確実に捕えるため、脳裏に刻銘にイメージする手段だった……。
当時、狩猟に出かけるときの戦略や武器の選出、そして踊りや音楽はどのようなものだったろう? それは部族の生命線を左右する儀式であり、20世紀の音楽でいえば、ストラヴィンスキーの「春の祭典」、オルフの「カルミナ・ブラーナ」、伊福部の「ゴジラ」などの表現と近いのだろうか? もし、21世紀のわたしたちが表現するなら、どうなるのだろう? 生命の根源を探る意味でも、アーティストたちに問いたい……そんな衝動にかられる。
私は高校生のころ、最近亡くなった木村重信氏の著書「はじめにイメージありき……原始美術の諸相」(1971年)に感動したことを思い出した。わたしたち人間が外的世界との関連づけを最初に獲得するのは、言葉よりもイメージにある……、それを明らかにした名著だ。ラスコー壁画が洞窟の暗闇に描かれているにもかかわらず、その彩色は鮮明で躍動感がある。この事実は、わたしたちの祖先がいかにイメージを明確に記憶していたかを証明している。
東京芸術院 「ずいずいずっころばし」(随々頭頃箸)
伊勢谷 宣仁
1. キジバト4鳥、来庭!
永年庭で、ミニ・サンクチュアリ。
かつては一日に15種ほどの野鳥がやってきて心身をいやしてくれたが、ここ数年激減。特に常客のカワラヒワが全く来なくなったのはとても寂しい。
そんな中今朝、キジバトの番(つが)いがツウペアで来庭。合計4鳥。前代未聞のこと。ドバトと異なり集団行動をとらないキジバトとしては珍しい。
彼らはその多くが番いで行動。以前、番いの1鳥が猫に襲われしばらく単独行動、それもいつしか消えて、久しぶりのお目見えがこれ。
キジバトの啼き音が面白い。ホーホー、ホッホーと4/4拍子。楽譜にすると・・・テンポは♩=100位で。
昨夏の檜原村花火大会。山に囲まれた狭い空間での花火の炸裂音は、こだまとなって闇を裂く。左右前後に響きの連鎖。このときのリズムも上記に同じだった。驚愕の音も心地よい感動。
むつまじい番いのキジバトは、幸運を呼ぶ鳥ともいわれる。
自然、人工+自然が紡ぎだす音の不思議に思いをめぐらす朝のひととき、幸運のリズムが今日一日をハッピーにつつんでくれるかしら?
(僕は鳥の数を、勝手に4鳥(よんちょう)と数えている)
2. 新オペラショウ「因幡二十士」に挑む。
〜友人の約束を果たすことを通じて、鳥取の発信を〜
来年は明治維新150年。各地で様々な記念事業が企図されているようだ。
そんな流れの中で僕は・・・。
鳥取県日野町にある泉龍寺のご住職・三島道秀氏は40年来の知己。その彼は東京に在学中、僕のところでオペラづくりの手伝いをしていた。
その三島住職と、昨秋久しぶりに新宿で再会。
開口一番、彼は自身の寺にまつわる物語でオペラを作ることを、僕が約束していたという。
まつわる物語とは、江戸幕府終末の混沌の最中、彼自身の寺に謹慎の沙汰を受けた鳥取藩士が、一時期暮らしていたということのようだ。
事は・・・。
鳥取藩主池田慶徳は、江戸幕府最後の将軍徳川慶喜の実兄。池田は尊王か、幕府を守護する佐幕かで明確な表明を出来ずにいた。藩内でも議論が分かれ激しい確執が起こっていた。そうした状況の中で尊王派の河田佐久馬以下22人の志士が、京都の本圀寺で佐幕論者4人を暗殺する。(その後、一人は自害、一人は行方不明で以後因幡20士とされる)
河田らの予測に反して池田藩主は激怒。死一等は免れたものの重い謹慎を命ぜられる。京都の寺で、そして、日野町の泉龍寺で。
やがて彼らは、鳥取に移される。そこでは切腹の危機。時あたかも国は二分。そもそも長州勢力に傾倒する彼らは未明に脱走を計る。途中仇討ちに遭い一部仲間を失うも長州勢力と合流。以後、河田以下志士は甲州以北を転戦。都度、勝利。
そして、やがて日本は新時代を迎える。
河田佐久馬は明治新政府の命を受け初代鳥取権令(知事)に。
三島住職の寺には、因幡20士が幽閉されていた時の様々な記念品が収められている。武術の用具、書、そしてベルギー製の拳銃等々。小さな町では住民との交わりを伝えるものも多々あるようだ。
さて、これをどのように音楽劇にするのか。ご関係者の理解。大きな労力、人力、資金を要する。
何もないないづくしの中で、どのように形にしていくのか、課題は山積。
例によって、僕の無手勝流戦法が始まる。
ご助力頂ければ幸いです。
(2017.5/7)